あきらめない信仰 ―― 祈り
・榎本保郎牧師が「信仰とはあきらめないことである。あきらめるのはすでに罪である。あきらめるということほど大きな不信仰はない。全知全能の神を信じるとは、どんな状態にあってもあきらめないで、望みを持って生きていくことである。それが信仰である。どこに望みがあるか。神にあって望みを持つのである。」と語っておられる。
・アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ローマ 4:18口語訳)。望み得ない状況に逆らって、望み信じたのである。なぜか、それは死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じていたからである。死んだらもうなんの望みもない。決定的である。しかしその死人を生かす神がおられる。神は無から、有を生み出される。それが創造の神である。「神、光あれ」と言われた、こうして、光があった(創世記1:3)。この神を信じるところに、望み得ないときにもなお望みつつ生きる信仰がある。
・初代教会は迫害のただ中にあった。当時の教会の中心人物ペトロが、権力者により捕えられ、処刑されることになった。それに対して何も抵抗できない。普通ならもうだめだとあきらめる。「しかし」教会はあきらめなかった。「教会では、大勢の人が集まって祈っていた」(使徒12:5、12)。教会は、ただ神に祈り求めていく以外に道はなかった。信仰とはあきらめないことである。
・教会はこの世に対して弱くても一向に差し支えない。大事なことはあきらめない信仰――心を合わせて熱心に祈りがささげられ、神にあって望みを持つ信仰に生きることではないか。
石田政美(横浜JOYバプテスト教会・派遣牧師)