人の「死」を考える
・このところ訃報に接することが多い。あの人もか、ということに、人の「死」を考えさせられている。
・一般的に日本人は、死と生を切り離して「対極的」なものとして捕える傾向が強いようです。「死しての千年より生きての一日」「生きているうちが花だ」などの諺が示すように、日本では死はもっぱらマイナスの価値として考えられ、死を「けがれ」とみなし、死は忌むものという生を死と分離するには大きな問題がありそうです。
・『死ぬための生き方』(新潮文庫)に、次のような文章がある。「健康で清潔で、ピカピカのもの以外は、人目に触れぬ所に隔離されてしまった。・・・・死者は日常から外へ。・・・・しかし、死が見えない社会とは、すなわち生が見えない社会である。」(同書231頁)
・三浦綾子さんは生前次のような言葉を残している。「死が今すぐのことでないと思っても、生きてることはやがて死ぬことですから。ほんとうは大変なことなんです。でもそのことを本気で考えて生きていったときに、だれもちゃんとした生き方ができるわけです。」
・一般には「死」から目をそむけ「ひとごと」とし、対岸の火事のように考えがちですが、キリスト教はそれと正反対です。聖書は自分の死をタブーとするな、自分自身の死に対する備えをせよ(アモス41:2)と語る。
・死を考えることは、生をまじめに考えることでもあり、充実した「りっぱな生」へと切りかえるチャンスとなるのです。
石田政美(横浜JOYバプテスト教会・派遣牧師)