「おのずと生じてくる感謝」
「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」( 詩篇50:15 口語訳) とある。このみ言葉は、このように聞こえてくる。「神のみ業を拝することがなく、真の感謝がないのは、悩みの日にわたしを呼ばないからだ」と。
確かに私たちは苦しいとき、病気のとき、行きづまったときに神を呼んでいる。けれどもその呼び方がはたして本当の呼び方だろうかと私たちは問われている。
クリスチャンがよく口にする「しもべは聞く、主よ語りたまえ」という聖書からの言葉があるが、私たちはこの言葉の意味をはたしてどこまで理解しているのだろうか。神は主であられる、私はその僕であるということをはたして本当に自覚しているだろうか。
神を呼ぶということは、言葉を変えて言うならば、自分が頼みとしている生命、地位、財産、そうしたいっさいのものを捨て、神に自らを明け渡して僕となり、神を主人としてお迎えすることなのです。
「悩みの日に神を呼べ」と詩人は言う。しかしそういう日には、なかなか神を呼べない私たちである。だが、本当に神を呼び、自らは僕となり神を主人としてお迎えするとき、その所ではじめて神のみ業を拝することができ、神をあがめずにはいられなくなってしまう。そこに「おのずと生じてくる感謝」それこそ本当の神へのささげ物( 詩篇50:14 ) なのではないか。