「力への渇望」(2)
・力を持っている人々には親しみにくいところがあります。私たちは力を持つ人を恐れます。力を持っている人々の前で、私たちは下手に出ます。その人たちを羨んだりします。
・しかし神は、私たちが神に対して恐れを抱いたり、距離をとったり、羨んだりすることを望まれません。神は私たちに近づくことを、もっとそばに来て、その親しさの中で、母の腕に抱かれた子どものように私たちが安らぐことを願われています。だからこそ、神は小さな赤ん坊になられました。小さな赤ちゃんをだれが恐れるでしょうか。赤ん坊は、世話をしてくれる人にまったく依存するほかありません。そんな無力な姿に、神は望んでなられました。そのように神は人間を頼りにして成長し、その中で生活し、良い知らせ(福音)を伝えました。
・ヘンリー・ナウェンは次のように語っています。「神は私たちと何ら異なるところのない人となられました。それは、まったくの無力さにそって『力』という壁を打ち破るためです。これこそ神が人の姿をとった受肉の持つ神秘であり、イエスの物語が意味するところです。この物語の終結は、無力な人間として、手と足を釘で打ちつけられ、裸で吊るされた十字架の上です。生まれてすぐ飼い葉桶に寝かされた無力さは、十字架にかけられるという無力さとなりました。」
・これこそ、神の愛を私たちに示すために神が選ばれた手段なの です。 (続く)
石田政美(横浜JOYバプテスト教会・派遣牧師)