弟子としての訓練
・現代は訓練を忘れた時代である。昔から守られてきた人生における訓練の道はくずれ、そのために、社会をささえる大切な基盤がくずれてきている。家庭における訓練、すなわちしつけは、姿を消そうとしている。学校における訓練も、進歩的教育法の影響でしょうか、しだいに行われなくなってきた。
・とりわけ、神の恵みの訓練を受けることは、律法主義であるとして嘲笑されている。私たちは、訓練によってのみ得られる、キリスト者としてのしっかりした人格を身につけるために霊的、精神的、肉体的、社会的な訓練を受けなければならない。
・「弟子になる」ということは、「訓練を受ける者になる」という意味である。弟子とは師なる方に教えられ、訓練されてきた者のことである。たとい主の御名を口にしても、師なる方の訓練を受けなければ、弟子ではない。
・「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子をむち打たれるのである。あなたがたは訓練をして耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられるのである」(ヘブル12:5~7 口語訳)
・キリスト者として、きびしい訓練(試練)を受けているのなら、イエス様の弟子として、神が子として取り扱っておられるからなのです。
今月のことば(2021年9月26日)
投稿日:
石田政美(横浜JOYバプテスト教会・派遣牧師)